御祭神

崇神天皇5年に疫病が大流行し、多くの民が死亡しました。天皇は同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原に遣わせ須佐之男神を祀らせ給うたところ、疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされています。

創祀より時を経て、神功皇后は朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定しました。皇后は凱旋の途中で忍熊王の叛乱に遭いますが、三筒男神の御神教により当地に天神地祇を祀り、神武天皇ご斎祷の故事に倣い御自ら八十平瓮を作り菰の葉に埴土を包み粽として奉り、方災除けを祈願して皇軍を勝利に導かれました。

後に応神天皇は此の地に須佐之男神・三筒男神・神功皇后を合せ祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と尊び奉られました。

明治6年3月郷社に列し、明治40年2月水天宮社を合祀、同年10月向井神社並びに境内社(愛宕神社・神明社・小祠四社)を合祀して方違天王神社と改称しましたが、同年11月方違神社に復号し、明治41年12月に八幡社及び武内社が合祀されました。

明治元年には東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り、昭和20年の第二次世界大戦により社殿を焼失するも昭和23年に再建、平成22年には創建2100年を迎え平成29年に社殿の造替を始め大規模な境内整備がなされ現在に至ります。