由緒

『方違宮縁起巻首』堺市博物館収蔵

当神社奉斎地は「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」と『万葉集』にも歌われているごとく、摂津、河内、和泉の三国の境界なるが故に、“三国山”また“三国丘”とも称され、この三国の境(ちなみに“堺”の地名はこれに由来する)で何処の国にも属さない方位の無い清地であるという考え方に依り、その境内の御土と菰の葉にて作られた粽は悪い方位を祓うという信仰を以て、古きより方災除の神として御神徳を仰ぐ参詣者が全国より訪れます。

奈良時代には行基が伏屋を設け人馬往来の要衝として栄え、平安時代には熊野詣の通過地点であったため熊野詣の人々が参詣し旅の安全を祈ったといいます。
以後、方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見えます

古来より方災除の神として知られ、普請、転宅、旅行等には御神札、御砂、粽を受け、方除の祈祷を望む人が多く、また、住居においても家相上理想的な建築は容易ではなく、知らず知らずの間に、又知りながらも方位を犯して新築、改造、転宅、旅行等を行う時、方除けの守護神として方位、地相、家相、日柄、厄年等に由来するすべての災難を取り除き、幸をもたらすという御神徳を以て広く厚く尊崇されています。